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2017年3月16日

◆◆◆◆ 《第445回》住宅事情 ◆◆◆◆

 

数ヵ月前、数軒先に住む老夫婦が思いつめた顔でやって来た。近所に住んでいるといっても我が家とは付き合いはなく、名前さえ知らない。いわば初対面のようなものである。老夫婦はこう切り出した。
「最近、うちの隣の家を買った人がそこをフラットに改装すると言っているのですが、あなたはこのことを知っていますか」
聞いてみると夫婦の隣家を買い取ったのは中東系の人物らしい。彼はその家に住むつもりはなく、買った後にすぐ大規模な増築の申請を地元の自治体に出した。母屋を改装するとともに庭に新しい棟を建て、五世帯分のフラットを不動産市場で売り出すという。
「今まで静かに暮らして来たのにいきなり隣に五世帯分のフラットを建てられてはたまりません。表には五世帯分のゴミ箱をずらりと並べて置くというし、車が始終出入りすれば騒がしくなり、近所の人も迷惑します。あなたはそう思いませんか?」
老夫婦は近所の住民にフラットの建設のことを知らせるため一軒一軒訪問しているのであった。そして増築を認めないことを求める手紙かEメールを地元の自治体に出して欲しいというのである。既存の家を大幅に増改築する場合、自治体に申請して認可を受ける必要がある。自治体はホームページに申請内容を公告し、近隣住民の意見を求める。それを参考にして認可するかどうか決めるのだ。
老夫婦が帰った後、インターネットで調べると自治体の不動産関係の欄に確かに彼らの隣家の改築が公告されていた。驚いたことに増築に反対するメールも二十通以上掲載されていた。発信者の住所を見るとどれも我が家の周辺の人たちである。あの老夫婦の戸別訪問が効果を上げたと見える。
考えた末、私も認可反対のメールを自治体に出すことにした。ここは昔から落ち着いた雰囲気の静かな住宅地である。二十年あるいは三十年の長きに亘って暮らしている人が多い。そうした古くからの住民の思いは大切にしなければならない。しかし、その一方で私はフラットの増築は多分認可されるだろうと思った。
周知のようにロンドンとその周辺は未曾有の住宅難である。EU離脱を決めたもののイギリスは今でも移民を中心に人口が増え続けており、そのほとんどはロンドンに集中している。これに対して住宅の供給が追い付かず、不動産価格は恐ろしいまでに値上がりした。


先日BBCが伝えたところによれば、ロンドンで勤務する教師の中に地方へ引っ越すことを考えている人が増えているという。理由は高騰する住居費と交通費である。地方に転居すれば給料は減るが、住居費と交通費が安くなる分、生活は楽になる。首都の住宅不足はそこまで深刻になっているのだ。まことにゆゆしき事態である。
むろんロンドン市も手を拱いているわけではない。しかしイギリスは日本のように公園や緑地を簡単につぶして住宅地にしないし、資材の高騰に加え、現場の技術者も不足しており、公共住宅の建設は遅々として進まない。
そうした住宅事情であるから、自治体にとって一戸建ての家をフラットに改築するのは歓迎すべきことだろう。少しでも住宅難の解消に役立つからである。実際、私が予想した通り、件のフラットは若干の条件付きながら自治体の許可を受け、工事が始まった。残念ながら、あの老夫婦の反対運動は実を結ばなかったのである。
イギリス政府は先日、「破壊された住宅市場の修復」と題する白書を発表した。白書は増え続ける住宅需要に対応するため地方自治体、地域社会、建設会社、投資家、賃貸業者などに協力を求めており、住宅不足の深刻さがひしひしと伝わって来る内容になっている。政府はその中で「住宅問題を放置しておくと家を持っている人と持ってない人との格差が拡大し、国家の分断が進む。たとえ移民がゼロになり人口の増加が止まっても、今のままでは国民が高すぎる不動産価格に苦しむことに変わりはない」と説いている。
イギリスの住宅不足はいわゆる不動産バブルとは別の問題のようだ。需給のギャップが大きすぎて短期間では解決出来ない。こういう状況だから、自分が住んでいた一戸建てをフラットに改築したり、事業として賃貸住宅の経営に乗り出したりする人が増えるのだろう。そのうち緑地だった広い場所に突然、大きな住宅が建つようになるかもしれない。それに伴い、住宅地のたたずまいも変わっていく。古くからの住民には言い分があるだろうが、時代の流れに抗うことは容易ではない。

 

在英二十余年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。
 

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