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2013年5月30日 No.781

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

 

アイヌと共に生きた男

ニール・ゴードン・マンロー [前編]


20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた
一人のスコットランド人がいた。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
考古学への興味から来日するが、
アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。
「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し
北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、
彼がこれまで正当に評価されることなく
日本の近代史に埋もれていた理由なども、
マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。

© Fosco Maraini

 

参考文献:
『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、
『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか


 

2013年春、横浜市歴史博物館で、ある特別展が開かれた。タイトルは「N・G・マンローと日本考古学 ―横浜を掘った英国人学者」。スコットランド出身のニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro)生誕150周年を記念して開催されたものである。
1942年に79歳で死去したマンローが初めて日本の地を踏んだのが28歳の時のこと。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、
マンローは日本人のルーツ、そして期せずして日本の暗部に触れることになる。マンローにとって、そして日本人にとってアイヌはどう捉えられていたのか。前編では、マンローの横浜時代を中心に送る。


 

◆◆◆ 考古学に魅せられた青年医学生 ◆◆◆


 



マンローが医学を学んだ、エディンバラ大学医学部の旧校舎(1906年当時)
ニール・ゴードン・マンローは1863年6月16日、北海に面したスコットランドの都市ダンディー(Dundee)に、外科医の父ロバート、母マーガレット・ブリング・マンローの長男として生まれた。ちなみにマンローという苗字を持つ一族はスコットランドでは名家のひとつであり、その祖先は14世紀まで辿ることが可能だという。
父親のロバートは開業医で、その傍らで刑務所と救貧院の医師も兼任していた。マンローの下には後に彼のあとを追って日本の地を踏むロバート(父親と同名)を始め、5人の兄弟妹が誕生。だが、一般に同族意識や故郷への愛着が強いとされるスコットランド人には珍しく、マンローには家族や故郷に関する逸話があまり残っていない。しかも25歳でスコットランドを離れて以来、79歳で死去するまでにたった1度しか英国、欧州に戻っておらず、かなり淡白な性格だったとも思われる。
だがそんなマンローでも、一家の長男である以上は将来父親の医院を継ぐはずであり、親の期待もあったようだ。現に本人もそのつもりで1879年から1888年までエディンバラ大学の医学部に在籍している。ところが医学の勉強中に、マンローは考古学の魅力に取り憑かれてしまう。
当時はチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版して20年が経過したところで、進化論に対する評価はようやく定着したばかり。この頃の欧州考古学界は、進化論の法則に基づいた人類の起源や進化の過程を確かめようと、原人発掘ブームに沸いていた。1866年に大森貝塚を発見したエドワード・S・モースを始め、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日したシーボルトの次男。父親と区別するため、日本では『小シーボルト』とも呼ばれている)の日本での発掘調査などでも分かるように、考古学界の目は東洋へと向けられてもいたので、マンローがインドや東南アジアでの原人発掘を夢見たとしても不思議ではない。
また、ダーウィンが死去したのはマンローがエディンバラ大在学中の1882年であり、若きマンローがその著作に影響を受けた可能性も高い。
その昔、ダーウィンはマンロー同様エディンバラ大で医学を学ぶも、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗って世界の海へ繰り出していった。そして各地で動植物を収集しながら、後に世界を揺るがすことになる進化論の基礎を導き出すに至るのだ。マンローが卒業後、インド航路客船医という一見奇妙なポストに就いたのは、ダーウィンという先例があったからと考えても、まるきり見当違いではないと思われる。

 

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