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2010年7月29日 No.636

取材・執筆/佐々木敦子・本誌編集部

東西の融合をめざした美の旅人
バーナード・リーチ(後編)

明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ(1887 - 1979)。日本で「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチは、故郷英国に戻り、東西文化の融合を目指した。数十年の『自分探し』の旅路の果てに辿り着いたイングランド南西端の町セント・アイヴズ。自らの製陶所「リーチ・ポタリー」を開き、やがて独自の思想を生みだすに至る、バーナード・リーチの生涯を前編に続きご紹介したい。

参考文献:『Bernard Leach Life & Work』 Emmanuel Cooper著(Yale University Press)、『バーナード・リーチの生涯と芸術 「東と西の結婚」のヴィジョン』鈴木禎宏著(ミネルヴァ書房)、『浜田庄司  窯にまかせて』濱田庄司著(日本図書センター)、『バーナード・リーチ展 Bernard Leach - Potter and Artist』 (1997年展覧会カタログ)Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives
 

 

  「銅版画を教えながら、愛する妻と日本で暮らす」という、大胆だが単純な希望を胸に来日し、やがて「東と西の架け橋」となることを目指すという、大きな問題に取り組むことになったバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然分からないまま、リーチは探究心に突き動かされて自分探しの旅を続ける。乱暴な言い方をすれば、陶芸やポタリーはリーチの思索のための手がかりの1つに過ぎなかったとさえいえるのかもしれない。だがそれは、必要不可欠な要素であったことは間違いないだろう。後編では、陶芸家バーナード・リーチの誕生とその軌跡を追ってみよう。
 

◆◆◆ 陶芸家リーチの誕生◆◆◆

 


 1914年頃からリーチは中国へ渡る準備を開始するが、それは東洋と西洋の融合という問題を考えるうちに出てきたアイデアであった。リーチは雑誌の投稿文をきっかけに、アルフレッド・ウエストハープ(Alfred Westharp)という、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家を知る。ウエストハープの思想が自分の考えに近いと感じたリーチは、幾度か文通した後、精神的な指導者を求めて中国へ渡ることにしたのだ。日本語をやっと覚えたかというところに、次は中国語の世界である。しかも妻と幼い子供を連れての移住であった。だが結果は惨憺たるものだったらしい。日本のように西洋にかぶれる以前の、「純粋な東洋」である中国において、西洋のいい部分を接ぎ木しようという、いわば啓蒙者としての中国行きでもあったようだが、ウエストハープとの思想的不和によって、リーチ一家は日本へ戻る。
 
《左》濱田庄司作「鉄絵角皿」©Phil Rogers《右》バーナード・リーチ作「Flat-sided Bottle」1957年 ©Tate
この影には柳宗悦の力があった。彼は「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思う」と告げ、千葉県我孫子市にある自分の敷地内に、窯を作ったらどうかと誘う。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族のことを考え日本を選ぶ。リーチの我孫子時代の幕開けである。
 当時の我孫子は何もない田舎の町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家のコロニーのような集落が形成された。中国では全く陶芸制作を行わなかったリーチだが、本場で質のよい白磁や青磁を見たことは、大きなプラスとなっていた。リーチはここで1920年まで、腰を据えて生地や釉薬などの研究にいそしみ、更に柳宗悦らと、禅について語り合う日々を送る。また、河井寛次郎と共に京都で釉薬の研究を行っていた若き濱田庄司との出会いも重要だ。当時20代だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪れるが、2人の間に熱心な会話が交わされたという。濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。彼はのちに人間国宝になる陶芸家だが、リーチが20年に英国へ戻り、セント・アイヴズに開窯する際、濱田がリーチの助手として同行し、その後関東大震災をきっかけに日本への帰国を決意するまで、その地で4年を過ごすことになる。   

 

 

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