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2014年6月5日 No.833

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

人類初の世界紛争
第一次大戦開戦へのカウントダウン

20世紀が幕を開けたとき、世界ではヨーロッパに集まる5つの大国が権力をふるっていた。
オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、フランスそして英国。
列強による植民地争奪戦が行われていたものの、一方では各国間で協力関係も結ばれ、
1870年以降、ヨーロッパでは大規模な戦いは起こっていなかった。
ところが、今から100年前の6月28日、突如ヨーロッパの平穏は引き裂かれ、
暗い雲が世界を覆ってしまう…。
国々を戦いへ向かわせたのは一体何だったのか。
今号では、第一次世界大戦の開戦前夜に迫ってみたい。

参考資料:『八月の砲声〈上・下〉』 バーバラ・W・タックマン著、
『第一次世界大戦 忘れられた戦争』 山上正太郎著 ほか
写真上 © Imperial War Museum=以下IWM (Q 2978)、
写真下 © IWM (Q 5100) / Brooke, John Warwick (Lieutenant) (Photographer)

 

 

バルカンに響いた不吉な銃声

 歴史を学ぶとき、第一次世界大戦の発端として最初に登場する「サラエボ事件(Assassination of Archduke Franz Ferdinand of Austria)」。事件の起こった都市サラエボは、バルカン半島に位置し、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都にあたる。
街の中心にはミリャツカ川が穏やかに流れ、この街を特徴づける美しい眺めを作り出している。そこに古くからかかる「ラテン橋」は、ある人物の名から、「プリンツィプ橋」と呼ばれたこともあった。ガブリロ・プリンツィプ、その人である。
100年前の6月28日。まもなく20歳を迎えようとしていたこの青年は、ラテン橋近くの軽食店の前に立ち、自問していた。「このまま計画は未遂に終わるのか。今日こそが敵を打ち取る絶好のチャンスなのに…」。
15世紀以降、トルコ(オスマン帝国)領であったボスニア地方は、1878年にオーストリア=ハンガリー(以下オーストリア)の支配下におかれ、1908年に併合されていた。同地域に住むセルビア人は言うまでもなく、スラブ主義を掲げる近隣諸国、なかでも隣国セルビアは、この併合に反発し、反オーストリア運動も活発に行われるようになっていた。
プリンツィプはそんな時代にあったボスニア地方の僻村で、1894年にセルビア正教を信仰する両親の元に生まれた。農家を営む一家は貧しく、両親は、彼が13歳のとき、帝国から課せられる重税にあえぎ、やむなく息子を手放すことを決め、プリンツィプは兄とともにサラエボで暮らすこととなる。親の苦しむ姿を目の当たりにし、幼心にも帝国への恨みが芽生えていったのは想像に難くない。オーストリアによる戒厳令が敷かれる中で多感な時期を過ごすうちに、帝国に対する憎しみ、支配からの解放を求める思いは膨れ上がっていった。
そしていよいよその思いを晴らす時を迎えたのである。奇しくもこの6月28日は、「聖ヴィトゥスの日」と呼ばれるセルビア正教における神聖な祝日。この重要な日に、オーストリアの次期皇帝候補フランツ・フェルディナント大公が、妻を伴いサラエボを訪れたのだ。

 


1914年6月28日にサラエボ市内を訪れたオーストリア大公夫妻。
この日はふたりの結婚記念日だったばかりか、大公妃のお腹には新たな命が宿っていた。© Karl Tröstl

 

 フェルディナント大公にとって不満分子の存在は承知のこと。だが、国民に対する友好的な姿勢のアピールを優先させた大公は、市内をオープンカーでパレードすることを決め、軍による仰々しい護衛に代えて警察を配置した。前日の新聞には、そのルートさえも紹介された。
次期皇帝の息の根を止めるべく、集まったのはプリンツィプをはじめ7人。それぞれが沿道の各所で大公の到着を待ちかまえていた。
午前10時、大公を乗せた車がサラエボ駅を出発。警備がゆるく、『丸裸な』状態にある標的をしとめることは、プロの手によれば楽勝だったかもしれない。ところが、最初の実行犯が放った手榴弾は、爆発のタイミングが合わず、後続車の周辺で爆発。随行者の中に負傷者が出たものの大公夫妻には傷ひとつ与えることができなかった。しかも危機に瀕した一行が市庁舎へとスピードを上げたことから、メンバーらは為す術がなく、暗殺はあっけなく未遂に終わってしまう。
手榴弾を放った同胞はあらかじめ用意していた毒を飲み自殺を図るも、毒が効かず、取り押さえられてしまう。この失敗は、他のメンバーに大きな動揺を与えた。グループの中には当日、実行メンバーに加わった学生も含まれており、いわば素人の集団に過ぎなかったのだ。そんな中で、暗殺の推進役としてプリンツィプは、自分の使命を誰よりも強く意識していた。
しかし、大公を乗せた車が去ってしまった今、彼の中には『計画断念』の文字がすでにちらついていたようだ。なぜなら、彼はサンドイッチを食べにラテン橋の近くにある軽食店へと趣いているからだ。暗殺を是が非でも遂行しようとする者としては緊張を欠く行為のようにも思われる。しかしこのとき、天はプリンツィプの味方をしたとしか考えられない出来事が起こる。

 


射撃後、プリンツィプは自殺を図ろうとしたが取り押さえられた(右から2人目)。
逮捕時20歳未満だったため死刑を免れ、20年の懲役刑が課せられる。
後に結核に罹患し、終戦の半年前にオーストリアの刑務所で23年の短い生涯を閉じた。

 

 食事を終え、プリンツィプが店の外に立っていたそのとき、1台のオープンカーがゆっくりと近づき、停止したのだ。車までの距離はおよそ3メートル。プリンツィプは体中の血が沸くのを感じた。反射的にピストルへと手を伸ばし、狙いを車のシートでにこやかな表情を見せる『標的』に定めた。そして2発。銃口からの火花も煙も見られない、静かな銃撃だった。
なぜ大公は、ここに現れたのか―。
その理由は、『単に道を間違えた』というしかない。大公を乗せた車は市庁舎での歓迎会を終えた後、予定を変更し、先の襲撃で負傷した随行員を見舞うべく病院へと向かう途中だった。ところがどういうわけか運転手にはそのことが伝わっておらず、病院方面ではなく、本来予定していたルートに従ってラテン橋近くの角を右折。間違いを指摘された運転手が車を一旦停止させ、後戻りしようとしたその場所にプリンツィプが居合わせたのだった。

 

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