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 大スキャンダルで社交界を揺るがせたエフィー・グレイ 【前編】

■ ヴィクトリア朝時代を代表する美術 評論家ジョン・ラスキン(右上絵)の 妻でありながら、ラスキンの友人で あった画家ジョン・エヴァレット・ミ レイ(左上絵)と「許されぬ恋」に落 ちたエフィー・グレイ。今回は、著名 な2人の男性を翻弄し、前代未聞の一 大スキャンダルとして世間を騒がせた 女性、エフィーの人生を前後編で追う。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

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女王に嫌われた女

ロンドンのテムズ河畔に建つ美術館 「テート・ブリテン」で、人気の高い絵 画のひとつ「オフィーリア」。オフィー リアはシェイクスピアの代表作「ハム レット」に登場する女性で、恋人のハ ムレットに捨てられ、さらに父親も殺 害されて正気を失い、歌を口ずさみな がら川底へと沈んでいく。川の流れに 身を任せる姿は悲哀に満ちていながら も、夢見るようなロマンチックさも漂 わせており、完成から160年以上が 経った今も人々を魅了している。

この「オフィーリア」を描いた画家 ジョン・エヴァレット・ミレイには、 最愛の妻がいた。彼女の名はユーフェ ミア・チャーマーズ・グレイ、通称エ フィー・グレイ。芸術家として初の貴 族位(准男爵)を与えられ、ロイヤ ル・アカデミー・オブ・アーツ(王立 芸術院)会長という美術界の頂点の座 に就いたミレイの妻であったにもかか わらず、その経歴からヴィクトリア女 王に嫌われ、エフィーは社交界に足を 踏み入れることが許されなかった。

一体なぜ、女王はエフィーをそれほ どまでに嫌悪したのだろうか?

テート・ブリテン所蔵のミレイの代表作「オフィーリア」。写生した小川 の風景と、バスタブに浮かんだ女性モデルのスケッチを組み合わせた。
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打算的な花婿探し

エフィーは1828年、スコットラ ンド中部のパースで、 15 人きょうだい の長女として誕生。父親はスコットラ ンドで指折りの敏腕弁護士で、グレイ 家は経済的に恵まれていた。  

子供たちの教育に熱心であった夫妻 は、エフィーをイングランドのスト ラットフォード・アポン・エイヴォン にある名門フィニッシング・スクール (上流階級の子女が礼儀作法を学ぶ学 校)に入学させる。革新的なカリキュ ラムで知られていた同校は、「自己主 張」「自己確立」を教育理念に掲げ、女 生徒にも討論や論文執筆に取り組ませ た。こうした教育方針は、エフィーの 聡明さや勝気さ、行動力を培っていっ た。成績優秀で明るく社交的。ユーモ アにあふれる彼女の会話は、そのス コットランドなまりさえチャーミング に聞こえたという。  

卒業後、エフィーは英国各地にいる 親戚や友人を訪ね、「花婿探し」を始め る。自分の夫は自分で決めたい――当 時でいう「新しいタイプ」の女性に成 長したエフィーは、やがて舞踏会で出 会った男性と婚約したが、最終的に伴 侶に選んだのは別の男性だった。その 人物が、美術評論家として活躍してい たジョン・ラスキンである。

約束されたセレブ生活

ラスキンは1819年、ロンドンで 貿易商を営む裕福な家庭のひとり息子 として生まれた。幼い頃からヨーロッ パを両親と旅しながら見聞を広め、成 長してからは家庭で厳しい教育を受けたため、友人はおらず、子供らしく遊 ぶこともなかった。その結果、オック スフォード大学へ進学するも、大学や 集団生活に馴染めずに体調を崩し、心 配した母親が大学の近くに転居。週末 には父親も訪れるなど、家族間の結び つきが非常に強かった。  

ロマン派文学を好んだ父の影響で、 バイロンやウォルター・スコットに親 しんできたラスキンは、やがて詩作の 才能を開花させ、文筆活動を開始。画 家ターナーらとの交流から、1843 年に刊行した「近代画家論」で美術評 論家として名を知らしめた。  

グレイ家とラスキン家はもともと交 流があり、パースにあるグレイ家の館 もかつてラスキン家が所有していたも のだった。ただ、エフィーとラスキン は 10 歳ほど年齢が離れていたため、互 いに結婚相手として意識してはいな かった。だが、ラスキンの母が成長し たエフィーに目を留めたことから、運 命は大きく動き出していく。  

「あの年齢で、彼女ほどの教養を身に つけた女性は少ないわ。少し賢(さか) しげだけど、経験を重ねれば思慮深さ も備わるでしょう。あなたの活動を助 ける妻に適任なのではないかしら」

母の言うことに間違いはない――マ ザコンの傾向があったラスキンは、す ぐにエフィーに求婚した。  

突然の話にエフィーは驚いたが、華 やかな社交界に仲間入りすることに憧 れを抱いていた彼女は快諾し、すでに 別の男性と交わしていた婚約を破棄。 翌年にラスキン夫人となる。ラスキン は 29 歳、エフィーは 19 歳であった。

スコットランド旅行中にミレイが描いた、刺繍をするエフィーとラスキンの肖像画。

神童の挫折

一方、その頃の美術界には、伝統や 権威にとらわれたロイヤル・アカデ ミーに反発する若者たちが現れていた。 彼らは「ラファエル前派兄弟団」(通 称「ラファエル前派」)を結成。イタリ ア・ルネサンス時代の巨匠ラファエロ から続く古典的な手法――つまり、過 去の作品から着想を得るのではなく、 外へ出て自然を前に写生することや、 心に感じたままに描くことの重要性を 主張したのだ。そのグループの主要メ ンバーのひとりが、後に「オフィーリ ア」を描くミレイである。  

ミレイは1829年、裕福な家庭の 次男として、サウサンプトンで生を受 けた。ジャージー島に領地を擁するミ レイ一族は貴族ではないものの、その 起源は 11 世紀にまでさかのぼる旧家で あった。ミレイは幼少時から画才を発 揮し、史上最年少の 11 歳でロイヤル・ アカデミー付属学校に入学、「神童」と もてはやされた。  

しかし、若い力への賞賛は反感も生 む。ラファエル前派を創設し、画壇に 反旗を翻した途端、作品は情け容赦な く酷評されるようになってしまう。順 風満帆の人生を歩んできた 21 歳の青年 に、この批判は大きな衝撃と苦痛をも たらした。悩んだミレイは、友人の仲 介で評論家のラスキンに擁護を嘆願。 この作戦は成功し、ラスキンが彼らの 支援を表明すると、大衆の風向きが一 気に変化した。ミレイはラスキンに礼 状を送り、以降、親しく付き合うよう になっていく。ミレイ、ラスキン、エ フィーの運命の歯車が回りだした。

裸婦像にはないもの

結婚5年目を迎えた1853年、エ フィーとラスキンは夏の休暇をスコットランドで過ごすことに決める。ラス キンに招待され、ミレイと彼の兄も交 えた一行は、4ヵ月ほど北部のハイラ ンド地方を旅した。  

幸福の始まりに思えた「玉の輿」婚 は、いまやエフィーにとって悲しみと 屈辱に彩られたものとなっていた。発 端は、結婚初夜にさかのぼる。

「あの夜、彼は『妻にすることはでき ない』と謝りました。子供が嫌いだと か、宗教的な信心ゆえだとか、私の美 しさを保つためだとか、様々な理由を 並べ立て、寝室から出て行きました」 (エフィーの手紙より)。  

実は2人は一度もベッドを共にした ことがなく、寝室も別であった。多忙 なラスキンは家をあけることが多く、 また外出しない日は書斎に閉じこもり、 顔を合わせることはない。妻に無関心 の夫との生活に、エフィーは笑顔を失 くしていた。そして 25 歳の誕生日を迎 えた夜、彼女は最後の勝負に出る。  

「正式な妻にしていただけませんか?」  

テーブルやピアノの脚まで卑猥とし て布で隠すほどに禁欲的だった時代に、 こうした話を女性から切り出すのには 相当な勇気が必要だった。それに対し、 ラスキンは渋々と答えた。  

「エフィー、あなたの身体は私の想像 とあまりにもかけ離れ、嫌悪感しか湧 かない。絵画や彫刻の裸婦像にはない ものがあって、気味が悪いんだ」  

ラスキンの言う「裸婦像にはないも の」とは「体毛」を指した。スコットラ ンドへ発つ6週間ほど前のことである。

許されぬ苦難の恋

ハイランド旅行に同行したミレイ兄 弟は快活で、ラスキンとは対極の若者 だった。エフィーは彼らと小川に入っ て水をかけあったり、岩場に腰掛けて 釣りに挑戦したりした。2人が風景を 写生しているときは、その隣で読書や 編み物を楽しみ、やがてミレイから指 導を受けながら一緒にスケッチも行う ようになる。ジョークを飛ばしあい、 賑やかに会話する日々に、エフィーは 本来の自分を取り戻していく気がした。 ミレイの兄が一足先にロンドンへ帰る と、エフィーとミレイの距離は瞬く間 に縮まっていく。そして長い休暇が終 わりを告げる頃、2人は許されぬ恋に 身を焦がすようになっていた。  

一方ラスキンはというと、彼らの輪 には加わらずに、雲や小川の流れを眺 めながら思索に耽ったり、本の執筆や 講演会の準備に没頭したりと、彼なり に充実した時間を過ごし、2人の関係 の進展にはまったく気づかなかった。  

ロンドンに戻ったミレイは頭痛に悩 まされ、家にこもりがちになる。孤独 感や喪失感に襲われ、ベッドに伏して 夜毎泣きじゃくった。エフィーもまた、 ミレイ恋しさに意気消沈し、食欲が減 退して寝込む日が多くなった。  

旅行から半年が過ぎた1854年の 春、先に動きだしたのはエフィーだっ た。前代未聞の離婚劇の幕開けである。(後編へ続く)

スコットランド旅行中にミレイがスケッチした「2人の 師と生徒」。「2人の師」とはミレイとラスキンの ことで、「生徒」は絵を習いはじめたばかりのエ フィー。右上にいたはずのラスキンは、後にミレイ が切り取った。ピッタリと寄り添って座るミレイと エフィーの姿から、仲の良さが伝わってくる。

週刊ジャーニー No.1139(2020年5月28日)掲載