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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年4月30日 No.879

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★タイトル★

6000の命を救った外交官

杉原千畝の選んだ道 【前編】

1994年、『シンドラーのリスト』が大ヒットを記録、数々のアカデミー賞に輝いた。
この映画により、オスカー・シンドラーという人物は世界的に有名になったが、これをきっかけに、ナチスの手からユダヤ人を救った「他のシンドラーたち」への再評価が大いに進んだのは、スピルバーグ監督も想定していなかった効果だったに違いない。
ナチスがヨーロッパ全土を脅かしていた当時、領事代理としてリトアニアに駐在していた
杉原千畝(すぎはら・ちうね)もそうした「シンドラー」のひとりだった。
前後編の2回にわたり、杉原千畝とその夫人について、お送りすることにしたい(本文敬称略)。

●サバイバー●取材/本誌編集部

大国にはさまれ、あがく小国に赴任

旧ソ連邦の中でいち早く独立を果たしたバルト三国のうち、最も南に位置するリトアニア共和国(Lithuania)。地図で確認しないと、どこにあるのか良くわからないと言われる読者の方も少なくないだろう。エストニア共和国(Estonia)、ラトビア共和国(Latvia)とともにバルト海に面し、現ロシアからやはり独立を勝ち取ったベラルーシ共和国(Belarus)およびポーランドと国境を接する。
この旧東欧の小さな一国、リトアニアのカウナス(Kaunas)という街に、『杉原記念館』と名づけられた建物がある。邸宅と呼ぶには小ぢんまりとしており、一般住宅といわれれば、そう納得してしまうような普通の造りだ。ここに日本の外交官、杉原千畝(すぎはら・ちうね)が領事として赴任したのは1939年。今から76年前のことだった。
第二次世界大戦中に1100人余りのポーランド系ユダヤ人が強制収容所に送られるのを阻止し、スティーヴン・スピールバーグが映画化したことによって世界に名を知られることとなったドイツ人、オスカー・シンドラーになぞらえ、後に「日本のシンドラー」と呼ばれることになる杉原が、リトアニアで過ごした期間はわずか1年。しかし、この運命の1年のおかげで、命を救われたユダヤ人の数は6000人余りにのぼる。
どういった経緯で杉原がこれらのユダヤ人と関わることになったのだろうか。
折りしも今年は第二次世界大戦終結から70年。今号と次号の2回に分けて、杉原とその夫人の『激動』と形容するにふさわしい欧州時代を振り返ってみたいと思う。

ヨーロッパ駐在時代の杉原千畝(左より2人目/写真提供:杉原記念館)
ロンドンからリトアニアの首都ヴィリニュス(Vilnius)までは、飛行機で約2時間半。杉原記念館のあるカウナスは、ヴィリニュスから車で約1時間という距離にある。スタンステッド空港、またはルートン空港からならカウナスへは直行便もあり、飛行時間はやはり2時間半ほど。ただ、便数は少ない。カウナスがリトアニア第二の都市であることを考えれば、ヴィリニュスより足の便が悪くても当然といえるだろう。
杉原が赴任した時、日本領事館がなぜヴィリニュスではなく、カウナスに設けられたのか。ここで簡単に当時のリトアニアが置かれていた状況を説明しておこう。
14世紀ごろ、バルト海沿岸の広大な領土を治める国家として中世ヨーロッパの地図に記されたこともあるリトアニアだったが、大国にはさまれた他の幾多の小国同様、波乱に満ちた歴史を歩む宿命にあった。1569年には隣国ポーランドと連合、リトアニア・ポーランド連合王国となるが、東のロシア、西のプロイセン(後のドイツの一部)、南のオーストリアによる、3度(1772、93、95年)の分割を経験。このうち、1795年の第三次分割では、ポーランドが国としていったん消滅したように、リトアニアも大部分が帝政ロシアに併合され、リトアニア語使用の禁止を含む、強硬な植民地化政策にさらされたのだった。
長い抵抗運動の末、リトアニアは1918年には一時的に独立を勝ち取ったものの、今度はポーランドに領土の一部を占領されるという憂き目にあう。まさに弱肉強食の世界である。1939年のナチス・ドイツによるポーランド侵攻によって、ポーランドによる占領は終焉を迎えるが、今度はソ連、さらにはナチス・ドイツに占領され、第二次世界大戦後は再びソ連の圧政下に入るなど苦難の時代は続き、リトアニアが真の独立を勝ち得たのは1991年、今からわずか24年前のことだ。
この約200年にわたる受難の歴史の中で、杉原がリトアニアに関わったのは、前述のとおり約1年。そのころのリトアニアでは、繰り返しになるが、領土の一部がポーランドの支配下にあり、首都ヴィリニュスも占領されていたため、カウナスが臨時の首都として機能していた。日本人が1人もいないというリトアニアに、情報収集を実際の目的として日本領事館開設を命じられた杉原は、家族とともに1939年8月28日、リトアニアに到着。まもなくカウナスに領事館を置いたのだった。

17歳で勘当されたガンコ青年

ヴィリニュスの旧市街から車で5分ほどの場所にあるユダヤ博物館そばに設置された、杉原千畝モニュメント。

40歳で、6000人ともいわれるユダヤ人の命を救うビザ発給を決断した杉原。杉原が心を決めた時、生い立ちから始まり、出会った人、彼が経験したことなど、彼のそれまでの人生すべてが関わっていたことは説明するまでもないだろう。
杉原千畝は1900年1月1日、岐阜県の八百津町(本籍は岐阜県加茂郡八百津町八百津)で、父「好水(こうすい)」と母「やつ」の間に次男として生をうけた。今でいう税務署員だった好水は転勤が多く、杉原は三重県、岐阜県、愛知県と小学校の間に3度も転校しなければならなかったが、どの学校でも成績優秀で、卒業時は「全甲」(「オール10」のこと)だった。
杉原が小学校の卒業を控えていたころ、好水は朝鮮総督府財務部への転勤を命じられ、単身で赴任。その後、公務員職を辞した好水は京城(今のソウル)で旅館業を始め、それが軌道に乗ったことから1916年、杉原本人以外の家族は京城へと移っていった。杉原は5年制の愛知県立第五中学校(愛知県立瑞陵高校の前身)に通学中だったため、1人日本に残り、同中を卒業した17年に家族を追って京城へと旅立った。
好水は、成績の良かった杉原を医者にしようと考えており、英語に関わる職に就きたいと希望していた杉原の気持ちなどは無視して、京城医学専門学校の入学試験の申し込みを済ませていた。
ところが入試当日、杉原は「反乱」を起こす。母のやつが丹精込めて作ってくれた弁当を持ち、試験会場に向かったものの答案用紙を白紙で提出。弁当だけ食べて帰宅し、好水を激怒させたのだった。明治時代の17歳は、現代の17歳より格段に精神年齢は高かったと思われるとはいえ、「家を出て働け」と事実上勘当されたことは、杉原が人生で直面した最初の大きな試練だったといえる。
日本に帰国し、東京へと向かった杉原は、1年の浪人生活を経て早稲田大学の高等師範部英語科に入学。
優しかった母のやつは、好水の目を盗んで時折送金してくれたというがそれではとてもまかなえず、杉原は学費と生活費のためのアルバイトに明け暮れながら、1年目(予科)を何とか終えた。
19年、本科に進んで約半年という夏休みのある日、杉原は外務省が官費留学生を募集するという広告を図書館で目にする。外交官、杉原千畝の誕生のきっかけとなるできごとだった。
試験までわずか1ヵ月しかなかったが猛勉強し、見事合格。英語のできる者はもう十分そろっているということで英語以外を学ぶことになった杉原は、試験担当官の勧めなどもあり、ロシア語を選択。早稲田大学を中退し、同年10月、後には満州国の一部となる、中国東北部のハルピンに赴きロシア語を学び始めた。
1年間、志願して予備少尉として軍事教練を受けるというブランクはあったものの、22年からは、できてまもない「ハルピン学院」(当初は日露協会学校)で本格的にロシア語の習得を開始。早稲田大学時代に、講義中にノートをほとんどとらなかったというほど集中力と記憶力に恵まれていた杉原は、やがてロシア人と変わらぬほどのレベルに達する。
24年には書記生となり、本格的に外務省職員として働き始め、32年には満州外交部特派員公署事務官に任命されるなど、ゆっくりとではあったが杉原は着々とキャリアを積みつつあった。

ソ連に嫌われた名交渉人

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1942年ドイツ領土
赤線で囲まれた部分が1942年当時、第3帝国時代のドイツ(大ドイツ国)が有していた領土。右の地図は、現在の国境を示す。
Martin Gilbert: The Holocaust. Jewish Tragedy., London 1986より*赤い点線は1942年末のドイツ軍前線、photo 16は主な収容所のあった場所

杉原が満州で本格的に外交官としての夢を追い始めたころ、日本を重苦しい雲が覆うようになっていた。欧米列強に追いつけとばかりに急速に軍事力を拡大、まずは中国へ食指をのばし、泥沼化することになる日中戦争へと突き進んでいったのである。
1932年、満州国建国。
前年の満州事変により、日本は強引に満州を占領。国際社会から激しく非難された日本に対して杉原は胸を痛めていたに違いないが、同年、配属された満州外交部で、帝政ロシアが建設した「北満鉄道」を、その権益を引き継いだソ連から買収するという一大プロジェクトに書記長として参加した。杉原は、卓越したリサーチ力と交渉力を駆使して、ソ連側を大幅に譲歩させるという「手柄」をたてる。
ソ連の希望額6億2500万円(当時の日本の国家予算は約20億円)に対し、計1億7000万円で決着。これにより、杉原の知名度は外務省内で一気にあがったという。
しかし、35年に日本に戻った杉原は、この快挙の思わぬ「しっぺ返し」を受けるはめになる。
36年末に二等通訳官として、念願のモスクワ赴任を命じられたものの、ソ連が入国ビザ発行を拒否。異例の事態に日本外務省は強く抗議したが聞き入れられなかった。

ヴィリニュスに設けられた「スギハラ通り」=写真下。市街地から車で約15分と少々離れており、観光客が訪れやすい場所にあるとはいえないのがやや難点。「スギハラ通り」のそばには、やはり杉原の名前をとったクリニック=写真上=もある。

杉原の落胆ぶりは想像にかたくないが、もしここでモスクワに杉原がスムーズに赴任していたら、6000人のユダヤ人の運命も、また変わっていただろう。杉原の定めは、すでにリトアニアのカウナスに向かっていたといえる。 37年8月、杉原はフィンランドのヘルシンキ公使館勤務を命じられた。ソ連経由のルートが認められないため、太平洋をわたりアメリカ合衆国を横断、さらに大西洋を経てヨーロッパに到着した。35年に結婚した幸子夫人(旧姓菊池)、その翌年に生まれた長男弘樹、そして幸子夫人の妹節子を伴っての渡航だった。
幸子夫人は、もともと岩手県遠野出身。教師だった父親が香川県の高校に校長として赴いた関係で、幸子夫人も香川県で教育を受けた。香川県立高松高等女学校を卒業したが、父親が亡くなり、東京で働いていた兄を頼って上京。保険会社勤務だった兄が外務省に仕事で出入りし、そこで杉原と知り合い、自宅に食事に招くようになったのが杉原と幸子夫人の出会いのきっかけだったという。
杉原35歳、幸子夫人22歳。13歳差、杉原にとっては2度目の結婚だった。実は杉原は、ハルピンで元ロシア貴族の令嬢、クラウディアという3歳下の女性と結婚したのだが、これは協議離婚という形で終わりを迎え、杉原にとっては決して良い思い出とはいえなかったようだ。
それとは対照的に、「外国に連れて行っても恥ずかしくない」と杉原が見込んだ幸子夫人は、その期待に見事に応えるとともに、何があっても杉原を支え、また、杉原を常に誇りに思い続けた。このうえない生涯の伴侶として互いに敬い、慈しみあえる相手にめぐりあった2人は、極めて幸運だったといえるだろう。

極貧生活が招いたヒトラーの「最終解決」

日本の通過ビザを求めて杉原のもとに殺到したユダヤ人難民にとって、カウナスからシベリア鉄道を使い、さらに船で日本に渡った後、アメリカ合衆国などの第3国に逃れるルートは最後の希望の光だった。
1937年、フィンランドのヘルシンキにある公使館に二等通訳官として赴任、後に代理公使に任命された杉原とその家族は、ヘルシンキで約2年、比較的穏やかな日々を送った。フィンランド着任の翌年、次男千暁(ちあき)が誕生。また、晩餐会など華やかな外交行事もまだ行われていた時代で、幸子夫人もダンスを習い、着物姿でステップを披露するなどしていたという。しかし、運命の夏はすぐそこまで来ていた。
39年7月20日、杉原はリトアニアの当時の首都カウナスに日本領事館設置を命ぜられ、副領事(領事代理)として単独で業務にあたるよう辞令を受けた。8月28日、リトアニアに入国。わずかその4日後、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻することになるとは、一介の外交官である杉原に予想できるはずがなかった。
1889年に下級税管吏の子としてオーストリアで生まれたヒトラー(Adolf Hitler)の生涯について、多くの著書が刊行されているが、若きヒトラーがなぜ過激な思想を抱くようになったかについては、次のような「分析」が一般的なようだ。

カウナスにある、旧日本領事館(現杉原記念館)。
10代で両親を亡くし、18歳で独り立ちを余儀なくされたヒトラーは、一時はホームレスになるなど極貧生活を味わう。下級寄りとはいえ中産階級出身者としての誇りを抱いていただけに、この辛い日々の中で、彼は異常なまでの怒りにふるえ、それをぶつける対象を追い求めた。
金融業などで豊かな暮らしを手に入れたユダヤ人たちの姿が、諸悪の根源としてヒトラーの目に映り、やがて大ドイツ主義、徹底した反ユダヤ主義が確立されるに至る。
ヒトラーの思想は、第一次世界大戦での敗北により精神的にも経済的にも苦境に追いやられたドイツ国民の熱狂的な支持を獲得、33年にはヒトラーが首相の座に就くという事態になる。民主主義(選挙)によって独裁者が選ばれたのだ。
ヒトラーのユダヤ人に対する憎悪は徹底しており、次のようなことを本気で考えていたとされている。

1940年夏、この建物の前にポーランド系ユダヤ人たちが「命のビザ」を求めて殺到した(写真提供:杉原記念館)。このユダヤ人難民の写真は、杉原一家が終戦後、抑留生活を経て日本にたどり着くまでの間、没収を運良く免れた写真の中に紛れ込んでいたものという。人々の訴えるような強いまなざしが印象的だ。
自らの国を建設することができないがゆえに、結束して世界制覇を狙い、住み着いた国々で、他の人々が労働によって得たものを搾取する寄生的人種のユダヤ人との「世界戦争」に打ち勝つためにドイツは「最終(全面)解決」を実現させる――45年4月30日に、妻のエヴァ・ブラウンとともにヒトラーがベルリンで自殺を図るまでの12年間、人類は、「2度と繰り返してはならない『負の遺産』」といわれる悲劇を経験する。
当初は、ユダヤ人の財産を没収し、ユダヤ人が公職に就くことを禁じ、ゲットー(ユダヤ人居住区)に押し込めるという政策だったが、第二次世界大戦の戦況がドイツにとって思わしくなくなるにつれ、ナチス上層部の政策は過激化し、おそらく41年ごろ、ユダヤ人問題の「最終解決=絶滅」という図式が完成されたと考えられている。
ポーランドのアウシュヴィッツなどに設けられた「絶滅収容所」で、ヨーロッパを中心に1100万人いたと推測されるユダヤ人が大量虐殺(ホロコースト=holocaust)の対象となり、命を奪われた者の数は約600万ともいわれる。
41年夏、杉原の駐在する在リトアニア領事館に押し寄せてきたのは、このホロコーストの犠牲になるかならないかの瀬戸際に立たされた、主としてポーランドからのユダヤ人難民たちだったのだ。

世界中から疎まれた民族

緯度的には北海道よりも北にあるロンドンの夏の日は長い。夏至の前後は午後9時になっても日が暮れず、朝は4時ごろから小鳥がさえずり始める。
このロンドンよりさらに北にあるリトアニアのカウナスでは、夏の日はさらに長く、厳しい冬の間に失ったものを取り返すかのように人々は戸外での時間を楽しむ。もし、平和であればの話ではあるが――。
この年も、夏の光はいつもと同じように降り注いでいたはずだが、杉原たちにはそう見えなかった、いや天気のことを気にかけている余裕などなかったことだろう。
40年7月18日午前6時、ある一団が、カウナスの在リトアニア日本領事館の門前を埋め尽くした。
約200人のポーランド系ユダヤ人らが、日本を経由して第3国へ渡航するのに必須である、日本の「通過ビザ」を求めて殺到したのだった。杉原は、彼らの事情を把握するため、代表5人を中に招き入れた。その中には、後に在日イスラエル大使館参事官として来日し、杉原の消息をつきとめるのに成功したジェホシュア・ニシュリ、イスラエルの初代宗教大臣になったゾラフ・バルハフティックが含まれていた。
ポーランドはいうまでもなく、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツ占領下にあり、彼らの逃げる道は東にしか残されていなかった。カウナスの領事館の中で、杉原以外に唯一、ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクは一計を案じ、カリブ海のオランダ領キュラソーという岩だらけの小島への「移住」を示唆。キュラソーなら税関もないため、入国審査もない。日本の通過ビザさえあれば、ソ連はシベリア横断を許可するとの判断を示していた。
ツバルテンディクが公的に提示した「キュラソーへ入るには入国ビザが必要ないことを証明する」(裏を返せば「入国ビザなしに入国できる」と解釈できる)という一文を携えてやってきたユダヤ人たちにとって、すべての鍵を握るのは杉原という1人の外交官だったのである。
この第二次世界大戦当時、恐慌の後遺症に苦しむ多くの国はユダヤ難民に対して、冷酷な態度を見せていた。39年、今は親イスラエルの米国すら、セントルイス号でドイツのハンブルクを出航してはるばる海を渡ってきたユダヤ人約1000人の上陸を拒否。もともと、受け入れを申し出ていたキューバ政府に土壇場で入国を拒否されたばかりか、米国にも拒絶されたこれらの人々はベルギーに泣く泣くもどり、やがてホロコーストの犠牲者の列に加えられることになる。大戦終了後、生き残ったのはわずか300人弱だったという。
残酷だが、ユダヤ人難民は世界中から嫌われていたといっても過言ではなかった。
しかし、その前年の38年12月6日、ユダヤ人難民の扱いについて「五相会議」(首相、外相、陸・海軍相、蔵相の主要閣僚)を開いた日本政府は、「日本、満州国、中国に住むユダヤ人について、他の外国人と平等に扱い、追放などはしない」「日本、満州国、中国への入国を希望するユダヤ人について、現行の移民法にのっとって平等に扱う」といった基本姿勢を決定していた。
これに基づき、外務省が出した「250ドル以上を携帯し、受け入れ先国の入国ビザを所有する者には通過ビザ発行を許可する」との通達の対象に、ユダヤ人も含まれていた。
日本がユダヤ人難民に、比較的寛容だったのはなぜか。
一説によると、ユダヤ人を積極的に受け入れ、満州に「極東ユダヤ共和国」なるものを建国、共同してソ連の南下政策に対抗しようと日本の軍上層部が真剣に考えていた時期もあるという。
が、それよりも、欧米列強に肩を並べようと精一杯背伸びをしてはいたが、しょせんは非白人、国際連盟で人種的偏見による不利益をこうむることを恐れていたという日本人は、無意識のうちにユダヤ人にある種の共感を覚えていたのではなかろうか。欧米人からさげすまれ、疎まれるユダヤ人難民の姿を見て、ひとごととは思えなかったのではないかという気がしてならない。

カウナスの杉原記念館にある、杉原の執務室の様子を復元した部屋(家具は実際に使われたものではないとのこと)。

悩みに悩みぬいた10日間

カウナスの「島公園」の中に植えられた桜。「桜パーク」と呼ぶには、まだまだ苗木が小さい。心ない人が苗ごと持ち去ったり、リトアニアの厳しい冬に耐えられず枯れたりして、かなり減ってしまったという。1本でも多く、成木になってほしい。
ここでひとつ、明確にしておきたいことがある。
近年、杉原の勇気ある決断に対して、前述の「五相会議」で決定された親ユダヤ的といえる政策をよりどころとした判断である点をことさらに強調、立派だったのはまずは当時の日本政府であり、まるで杉原のとった行動は特筆に価するほどのものではなかったように言う人々もいると聞く。
また、外務省に「背いて」杉原が通過ビザ発行を決断したという点に反発する声もあるという。外務省は「250ドル以上を携帯し、受け入れ先国の入国ビザを所有する者には通過ビザ発行を許可する」としており、決してユダヤ人への通過ビザ発行を杉原に禁じていたわけではなく、杉原ひとりを英雄扱いすることには疑問があると主張する人もいるようだ。
しかし果たして、杉原が置かれた状況下で、すなわち、ナチス・ドイツから何らかの妨害を受け、場合によっては暗殺される恐れもあったがそれを承知のうえで、同様の行動をとれる人が何人いただろうか。
また、外務省の最終的な許可なく、通過ビザ発行の対象としての資格を満たしていない大量のユダヤ人難民にビザを発行することにより、深刻な責任問題が発生することを覚悟し、敢えて難しい道を選ぶ人がどれほどいたか。
通信手段も暗号による電報か、それでなければ船便という時代に、既述のとおり、他に日本人のいないヨーロッパの片隅にある小さな異国で、守ってくれる軍隊などがそばにいるわけでもない。まさに孤立無援ともいえる状態の中に置かれていたとしたら、どう行動するか。
自分だけでなく家族を危険にさらし、さらには、外務省から責任を問われることは、困窮していた学生時代に、自分の才能に対して「投資」してくれた組織を裏切ると同時に、外交官として日本のために働くことに無常の喜びと誇りを感じていた杉原が、外交官職そのものを失う可能性をもはらむ行為だった。しかも、日本と防共協定を結んでいたドイツの政策に逆らうことにより、最悪の場合、ドイツと日本の友好関係にひびを入れることになり、ひいては日本の国益を損ねる背信行為になる。
杉原は10日間、心の中で葛藤を繰り返した。
条件を満たしている者(わずか10名弱)への通過ビザ発給の手続きを行いながら、杉原は計2回、祈りを込めつつ日本に向けて指示を仰ぐ電報を送信。しかし、2度とも良い返事は得られなかった。
オランダ領事館が出した、「キュラソーへ入るには入国ビザが必要ないことを証明する」旨の文書は、厳密にいうとキュラソーへの入国ビザとはいえないものだった。また、リトアニアに逃れてきたユダヤ人たちの中には「250ドル以上」を携帯している者はほとんどおらず、旅費・滞在費に関しての不足分は、ユダヤの同胞機関から日本の「神戸ユダヤ協会」に届けられる『予定』の資金を、現地(日本)で受け取るという「方便」が用いられたが、これも日本の外務省を納得させるものではなかった。
「条件を満たさない者に関してはビザを発給してはならない」
「大集団の(日本への)入国は、公安上許可できない。また、敦賀(福井県)への移送を担うことになる船舶会社も安全上の理由から反対している」
しかし杉原は、外務省からの2回目の拒否回答を得た後、腹を括り、幸子夫人に自分の決意を伝えた。
「外務省に背いて領事の権限でビザを発行することにする」
幸子夫人に異存はなかった。「子供たちも私も最悪の場合、命の保障はないのだ」という思いが胸をよぎったというが、このままユダヤ人たちを見捨てて国外へ脱出するということは杉原夫妻の選択肢から当然のごとく除外されたのだった。

カウナス近郊にある「第9要塞博物館」は、第二次世界大戦時には、ナチスにより収容所として使われた場所。
その時代に関連した展示=写真右=に加え、ソ連占領下で、シベリアに抑留された人々に関する資料が展示されているほか、杉原千畝についての展示室=写真左=もある。

2139枚の「命のビザ」

カウナス時代の杉原一家(左から幸子夫人の妹節子、次男の千暁、ひとりおいて、三男の晴生を抱いた幸子夫人、長男弘樹、杉原千畝/写真提供:杉原記念館)。
1940年7月29日、月曜日。杉原は「通過ビザを発行する」旨をユダヤ人たちに告げた。この日から1ヵ月余り、カウナスを離れるまで、杉原は寝る間も惜しんでビザを発給し続けたのである。
初めはすべて手書きだったが、大量発給を可能にするため、受け入れ国をキュラソーとする通過ビザであることを示すゴム印を作成。途中からは少しでもスピードアップできるよう、番号付けを取りやめるなど、所定の手続き業務を簡略化して、杉原はただひたすらビザ発給に没頭した。
8月3日、リトアニアは正式にソ連に併合され、独立国ではなくなり、日本領事館も存在理由を失った。
日本外務省は、この併合の公式発表にさきがけ、その前日の2日に杉原に退去命令を出した。
ソ連からも間もなく退去要請を受けたが、杉原は両国からの強い意向を無視して領事館に留まり続けた。万年筆が折れ、腕が動かなくなるほど疲労し、幸子夫人がマッサージをしている間に仮眠をむさぼるという状況のもと、ビザ発給をやめなかったのである。ただ、ソ連と日本の両方からの領事館閉館、国外退去を求める圧力は日増しに高まっていった。

ベルリン出発前に杉原一家が滞在した、メトロポリス・ホテル=写真右。現在、その一部はレストランなどの店舗スペースとなっている=写真左。
8月26日。杉原はついに領事館閉鎖を余儀なくされる。外務省外交資料館に保管された、通称「杉原リスト」と呼ばれるビザ発給名簿に記録された、最後の3人にビザを発給した後、杉原一家はカウナスの中心部にあるメトロポリス・ホテルに移動。ここで、次の赴任地であるプラハへ向かうためのベルリン行きの列車に乗るまでの約10日間、さらにビザを発給した。
疲労困憊の杉原を突き動かしていたものが、報酬への期待や功名心だったのではないかと、意地の悪い詮索をする者も、後の外務省内にはいた。
ユダヤ人から大金をもらってビザを出したという中傷については、カウナスで杉原と最初に話し合いをもった5人の代表者のひとりで、イスラエルの初代宗教大臣になったゾラフ・バルハフティックもこれを否定しているという。杉原は、規定のビザ発給手数料(当時の日本円にして30銭)すら、途中で要求しなくなったとされている。
1枚でも多く、1人でも多く――文字通り、命がけでビザを求めてやってくるユダヤ人たちに対して、杉原は良心ある一個の人間として応えたと考えるべきではなかろうか。
ハルピン時代に洗礼を受け、ロシア正教徒となっていた杉原が、そのころの一般的な日本人以上に「博愛精神」「人道主義」というキリスト教世界でより発達した価値観の影響を強く受けていたことは間違いないだろう。また、ロシア語を学んだハルピン学院の「人の世話になるべからず、人の世話をすべし、報いを求めるべからず」という建学の精神も、杉原の考え方に大きく影響を及ぼしていたと分析する意見もある。
いずれにせよ、確かなことは「杉原リスト」に2139の名前が記されているという点だ。
これは8月26日までの記録であるため、メトロポリス・ホテルなどで発給されたビザは数に入っておらず、最終的なビザ発給数は明らかではないものの、当時は1枚のビザで一家族が移動することが許されていたので、これらのビザにより6000人、いや、それ以上のユダヤ人が生き残るチャンスを得たことになる。
運命は、時としてごく一部の人間に大きな使命を予告なく与えることがあるが、この時の杉原は、まさにその使命を好むと好まざるとにかかわらず与えられたのだといえる。
40年9月5日。ベルリン行きの国際列車に乗り込むため、杉原夫妻、長男弘樹、次男千暁、そして5月に生まれたばかりの三男晴生(はるき)、幸子夫人の妹節子の6人はカウナス駅へ向かった。
プラットホームには、ビザをもらおうと必死で杉原にパスポートや書類を差し出すユダヤ人たちがなお列をなしていた。出発ベルが鳴っても杉原はビザを書き続けたが、ソ連兵によって無理やり列車に乗せられた。走り始めた列車の中で、すべてのユダヤ人にビザを発給し切れなかったことを悔やんで涙を流す杉原を慰める言葉が、幸子夫人にはみつからなかった。
杉原と幸子夫人の人生の中で、このカウナスでの50日は最も劇的な経験であったことは疑う余地がないだろう。しかし、カウナスを離れたその瞬間が、人生の次章とも呼ぶべき、その後の2人の波乱に満ちた日々の幕開けでもあったのだった。(後編に続く)。

今は近代的に改修されたカウナス駅。
杉原は、ベルリンへ向かう列車の発車のベルが鳴っても、ビザを書き続けたという。

■ カウナスの杉原記念館 Sugiharos Namai


開館時間

5-10月 月-金曜日 10:00-17:00、土・日曜日 11:00-16:00
11-4月 月-金曜日 11:00-15:00、土・日曜日 休館
※開館時間以外でも、事前に連絡すれば見学が可能になる場合もある。

杉原記念館の存続にご協力を
来訪者・見学者からの募金を主体として運営されている同記念館では、財政難が続いている。毎年6,000人ほど(日本人は約5,000人)が訪れる同記念館は、施設維持のために年間約1万ユーロが必要とされるが、募金だけでは職員の給与や冬場の暖房費などの経費もまかなえないという。また、老朽化にともなう大々的な修理も必要とのこと。1人でも多くの人からの善意が求められている。

Sugihara House
Vaizganto g. 30, Kaunas, LT-44229 Lithuania 
Tel: 370-698-02184 / 370-680-42242 (海外から)
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