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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年9月29日 No.952

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ロンドン大火から350年 {Part1} 燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

ロンドン大火から350年 {Part1}

燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

1666年9月。
猛威をふるうペストに疲弊し切っていたシティ・オブ・ロンドンは、灼熱の炎に包まれた。凄まじい勢いで燃え広がる炎を目の当たりにした市民は、「この世の終わりか」と恐れおののいたに違いない。
シティの風景を一変させた火災の発生から350年。今号では、世界の火災史に大災害として記録されることになった、炎の4日間「ロンドン大火(The Great Fire of London)」についてお送りする。
【関連記事】ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

●サバイバー● 取材・執筆・写真/根本 玲子・本誌編集部

ありふれたボヤが原因

17世紀頃の消火活動は、「fire hook(とび口)」を
使って出火元の周囲の家屋を倒壊させ、
延焼を防ぐのが一般的な方法だった。
(イラスト提供:LMA)
9月2日、日曜日。時刻は日付が変わったばかりの深夜1~2時頃のことだった。
ロンドン塔の西、ロンドン・ブリッジのすぐ北に位置する下町プディング・レーンに店を構えるパン屋の主人トマス・ファリナーは、下男の取り乱した声に眠りを覚まされる。一体何事かと問いただせば、かまどのある一階から火の手が上がっているという。木造家屋の火のまわりは早い。すでに階段を使っては外に出られなくなっていることを悟ったファリナーは、家族を伴い窓から通りへと飛び降りた。第一発見者の下男も無事に脱出したが、高所恐怖症だったという下女は窓からどうしても飛び降りることができず、そのまま煙と炎に包まれてしまう。
一方、火事の知らせを聞いたロンドン市長のトマス・ブラッドワースは、「またか…」とばかりに、ろくに取り合わず寝床に戻った。だが、その頃、火勢は東風にあおられ、いよいよシティ・オブ・ロンドンをのみ込もうとしていた――。これが4日間で町を灰にした、かのロンドン大火のファースト・シーンだ。そしてファリナー家の哀れな下女は、この悪名高き大火の最初の犠牲者となってしまったのである。
この大火災以前のシティの火災については、詳しい記録は残っていない。しかし、ローマ時代に建設された市壁(City Wall)に囲まれた空間に、木造住宅がひしめき合っていた中世のロンドンにおいて、火災は日常茶飯事であったのだろう。カンタベリー大司教の書記だったウィリアム・フィッツスティーヴンは、12世紀後半のロンドンの市民生活をこう語っている。「ロンドンの災いは、愚か者の深酒とひんぱんに起きる火事」。どことなく「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉を思い起こすフレーズだ。
小さなパン屋で起こった「ありふれた火事」が、なぜ歴史的な被害を招くことになったのか。当時の貴重な目撃証言などを交えながら、大火前夜から鎮火までの様子を探ってみたい。

市壁に囲まれたロンドン

まずは火災現場となった「シティ・オブ・ロンドン」の成り立ちに注目しよう。この地は現在のグレーター・ロンドン市の中心部からみると東寄りに位置しており、今日のロンドンの起源となった場所でもある。現在は金融街として知られ、単に「シティ(The City)」と呼ばれることが多い。
この地にローマ人が初めて侵入したのは、紀元前43年頃。船でテムズ河をのぼってきた彼らは、その後約1世紀をかけて河の北側と南側を結ぶのに便利な地点を選び、船着き場や橋を建設。先住民ケルト人の言葉で「沼地の砦」を意味する「ロンディニウム」を作り上げる。そして外敵の侵入を防ぐため、同地を中心として河の北岸にほぼ半円形に市壁を建造。さらに、その外側に濠(ほり)をめぐらせ、街道が壁を通過する箇所には7つの門を設けた。「オールドゲート(Aldgate)」「ラドゲート(Ludgate)」など、末尾に「ゲート(gate=門)」がつく地名が、それにあたる。この壁に囲まれた約2・5平方キロメートルほどの地域が「シティ・オブ・ロンドン」だ。
その後ローマ人が去り、ヨーロッパからやってきた民族がブリテン島に定住するなどし、イングランドの基礎が築かれる。やがてシティは「商人が暮らす、商売のための町」として目覚ましい発展を遂げていった。宮殿こそなかったものの強力な自治権を持ち、政治の中心である隣のウエストミンスター市に住む国王ですら、おいそれと手出しができない独立した商業都市として機能するに至る。また、ランドマーク的存在のセント・ポール大聖堂を中心に、市街には百近い教区教会が林立していた。この時代において、「教会の多さ=キリスト教徒の多さ」であり、果てはそのまま人口の多さにも繋がった。一説では当時のシティの人口は46万人とされており、イングランドの人口の約1割がシティに集中していたことになる。

「不潔都市」シティ

現在のプディング・レーン(写真上)。
当時は木造家屋がひしめきあう狭い通りだった。
では、人々の暮らしは一体どうだったのか。
火災発生当時のシティの人口密度が非常に高かったことは、すでに述べた。教会や富裕層の家のみがレンガ造りで、ほかはすべて燃えやすい木造住宅。限られた場所で建て増しを繰り返した結果、通りが非常に狭くなっている箇所も多かったという。頻発する火事の予防のために建築規制を行う試みもあったが、あまり効果はみられなかった。さらに、当時の煮炊きや暖房の燃料は石炭や薪。大火災の起こる条件は十分に揃っていたといえよう。
こういった状況が長年にわたって続く一方、住民の数が飽和状態に達しつつあったシティでは、当然ながら「不潔化」も進んでいた。現在のようなゴミ回収システムなどはなく、人々が投げ捨てるゴミ、商店や工場から出る廃棄物のせいで、かつて清らかな水流だったフリート川は悪臭漂うドブ川になっていた。下水施設も発達しておらず、人々は排泄物を『おまる』のような容器に溜めては通りに直接投げ捨てるという、不衛生きわまりない状態。当時のヨーロッパでハイヒールが普及したのは、ゴミと糞尿であふれた通りを歩く際、服の裾を汚さないためだったという話もあるぐらいだ。また、住宅は密集し、日照条件も悪く空気の通りもよくなかった。ネズミなどの害獣にとっては、まことに暮らしやすい環境であったといっていいだろう。このような劣悪な住環境の中、大火前年のシティは、史上最悪のペスト禍に見舞われる。

ロンドン大火を記憶にとどめる記念塔
モニュメント

現在はオフィス街となっているシティに位置する、地下鉄モニュメント駅。その駅名は、大火とその後の復興を後世に伝えるために造られた「ロンドン大火記念塔(The Monument)」=写真右=にちなんでつけられている。今は近代的なビルが立ち並ぶエリアとなっており、当時の様子を想像することは難しい。塔の高さは約61メートルで、火元となったファリナーのパン屋からこの塔までの距離と同じになるようにデザインされている。
建築家のクリストファー・レンとロバート・フックの設計により、大火から11年後の1677年に完成。311段からなる螺旋階段をのぼると下の写真のような絶景が広がる(右に見えるのはセント・ポール大聖堂)。また、「登頂証明書」も発行してもらえる。大人£4.50。

The Monument
Monument St, London EC3R 8AH
Tel 020 7626 2717
www.themonument.info

「今週の死亡者のお知らせ」

当時の国王チャールズ2世。
ロンドン大火は英語で「The Great Fire」、その前年のペスト大流行は「The Great Plague」と呼ばれる。中世ロンドンの市民は、2つの「ザ・グレイト」を連続して経験することになった訳だ。
ペストとは、ペスト菌に感染したネズミなどにたかるノミを媒介に発症する伝染病で、伝染力、致死率ともに高く、発病者は皮膚内に出血が生じ、その死体が青黒く見えることから「黒死病(Black Death)」として恐れられていた。14世紀にヨーロッパと中東を襲ったペストの大流行は、発生地域の人口のうち、実に3分の1の命を奪ったという。ロンドンでの最初の流行は1348年9月~50年初春までで、当時の人口5万人のうち35~40%が死亡したとされている。
そして17世紀のロンドンでは、3度にわたる大流行がみられる。最初が1603年、次が1625年。同世紀最悪の流行となった1665年には、死者は6万3500人を超えた。路地で死体につまずくことも珍しくなく、1人でもペスト患者が発見された家屋は、40日間にわたり隔離されるため、同家屋内の住人全員に感染して共倒れという痛ましいケースも少なからずあったという。
また、各教会では教区内の死亡者の死因が判定され、それらを集計したものが「死亡告知表」として毎週発行されるようになっていた。人々はこれを買い求め、「今週の死亡者数」をもとに疎開について検討したり、何の商品が売れるかを考えたりするなど、商売の予想を立てるのに利用していたという。恐いもの見たさの心境もあったのかもしれないが、どの教区でどの程度ペストが流行しているか危険ゾーンを把握するのにも一役かったとされ、この「お知らせ」は市民の自衛手段のひとつとして用いられていたのである。

ピープスの見た大火、1日目

焼失地域を示す概略図。
被害が西へと拡大していったことがわかる。
© Museum of London
さて、いよいよ場面は冒頭のファリナーのパン屋に移る。
その年の夏は、10ヵ月近い干ばつ続きで空気も建物も非常に乾燥していた上、出火当夜は強い東風が吹き荒れていた。炎はたちまち隣家へと燃え移り、テムズ河岸に沿って並ぶ倉庫街に飛び火する。ここには火薬にタール、油や石炭類などありとあらゆる可燃物が大量に貯蔵されていたからたまらない。火は文字通り爆発的な勢いを得てシティへの『侵攻』を開始する。
ここで当時の様子を日記に綴っていた海軍省の役人、サミュエル・ピープス(下コラム参照)による貴重な目撃証言を紹介しよう。ピープスの暮らす官舎は、ロンドン塔から北西に向かってすぐのシージング・レーンとクラッチト・フライヤーズ通りが交差するあたり、火元のプディング・レーンからは風上に位置していた。火災現場が自宅から近かったこともあり、ピープスは火災当時のシティを歩き回り、その現状を事細かに日記に記している。これをもとに、火災1日目のピープスの行動を追ってみよう。
まず、出火直後の午前3時頃。日曜日に客人を招くため、早くから仕事をしていた女中が火事に気付き、主人のピープスを起こす。西の方で火事が起こっているのを窓から認めた彼だが、「大したことはあるまい」と思い、再び寝てしまう。

1670年頃に描かれたロンドン大火の様子。
燃え落ちるセント・ポール大聖堂。
翌朝起きて再び窓から眺めた際、火事は下火になったように思えたとしている。これは東風で彼の家とは反対方向に火災が広まっていたため、そう見えたようだ。女中から一晩で300軒の家が焼けたと知らされたピープスは、あわててロンドン塔へ赴き、高い場所から火事の様子を確認。次にテムズ河へ向かうと、火は四方八方に荒れ狂い、人々が家財道具を持ち出して河に投げ込んだり、橋のたもとに浮かぶ小舟に運んだりしているのが見えた。誰一人として消火に努める者はいなかったという。この後、ピープスは国王チャールズ2世のいるホワイトホール宮殿を訪れて現状を伝え、延焼を防ぐために家屋の取り壊しを決定するよう進言。これは消火手段が発達していなかった時代、火事の拡大を防ぐための一般的な方策だった(上記の挿絵)。国王はこれに同意し、彼に名代としてロンドン市長のもとへと向かうよう命じる。
通りは住人たちが運び出した家財道具や荷馬車であふれ、病人をベッドにのせたまま担ぐ人々も見られた。混乱を極める通りをなんとか進みながら、ロンドン市長のブラッドワースに国王命令を伝えるものの、予想外の事態にパニック状態になっていた彼は「誰も私の言うことなんか聞こうとしませんよ」と悲鳴を上げ、リーダーシップを発揮するどころか諦めの境地に入っていた。夜になっても、火勢はますます強くなるばかり。炎が教会や家をのみ込み、ガラガラと崩れていく音が響いていたという。

ピープスとイーヴリン
大火の記録を残した証人たち

大火の様子を知る資料としては様々な公文書が残されているが、一般市民の行動、通りの様子はどのようなものだったのか。2人の日記作家が自らの体験を綴ったのものが、現在も残されている。
1人は本文にも登場した、サミュエル・ピープス(1633~1703年)=右絵。仕立て屋の息子から奨学金を得てケンブリッジ大学に進学、王政復古(1660年)後には海軍省の文官となり、最後は海軍大臣にまで登りつめた。彼の日記は暗号を用いて記され、日々の出来事に加え、賄賂や人の悪口、浮気の詳細など他人に読まれては困るようなことまで綴られており、少々スキャンダラスな内容で知られる。
しかし、実際には暗号はちょっとしたヒントさえあれば解読でき、さらに遺言では母校ケンブリッジ大学に寄贈する蔵書の中に日記も入れていたというから、実は「誰かに読んでもらいたい」というのが本音だったのだろう。ピープスの家は風上にあったとはいえ火災現場に近く、市内視察を行うかたわら、荷物を知人宅に避難させたり、庭に穴を掘ってお気に入りのワインやチーズを埋めたりするなど、なかなか忙しかったようだ。
もう1人の日記作家、ジョン・イーヴリン(1620~1706年)=左下絵=は、火薬の製造で財を成した一家に生まれ、オックスフォード大学で学んだ。清教徒革命の時代は戦乱を避けヨーロッパ各地を遊学し、帰国してからはチャールズ2世のお気に入りの知識人の1人として引き立てられた。彼の日記にはピープスのような大胆な記述はないものの、火事の様子を乾燥した空気の状態と結びつけて考察するなど科学者的、全体的視点が感じられる。
実生活でも知己の間柄で、頻繁に文通する仲だったという2人。どちらの日記も、後世の人々にとって当時の社会事情などを知る貴重な資料となっている。

広がる不安、そしてパニックへ

昔のセント・ポール大聖堂。
中央の尖塔は、1561年の落雷で崩れ落ちた。
ロンドン大火の発生時、この尖塔は再建中だった。
ピープスの日記にもあるように、通りは家から運び出された荷物や逃げ惑う人々、そして野次馬たちで混乱を極めていた。住居に火の手が迫った人々は消火に精を出すよりも、持ち出せるだけの荷物を通りや広場、テムズ河に運び出して財産を守ろうとしたのだ。貸し荷馬車屋、渡し船が繁盛したというのもうなずける。テムズ河は一面、荷物を積み込んだ舟などでぎっしりと覆われた。家財道具を積んだ舟の3つに1つには、かならずヴァージナル(ピアノの前身となる楽器、チェンバロの一種)が積まれており、舟から転げ落ちたとおぼしき上等な品物が水面を漂っていたというから、船を手配することのできたのは富裕層に限られていたのであろう。多くの市民は運び出した荷物の番をしながらの野宿をやむなくされた。猛火に追われ、身ひとつで逃げ出した人々も多かったはずだ。命からがら避難場所にたどり着いた数十万の人々は、目の前で自分たちの町、生活のすべてが丸ごと焼け尽くされていくのをどのような思いで眺めたのだろうか。
市内では引き続き消火活動も続けられていたものの、わずかな水による消火活動では荒れ狂う火の勢いに到底追いつかず、延焼を防ぐため火が進む方向にある家屋を火薬で爆破し、広い防火帯をつくるという手段も取られた。しかし、火薬による爆発音は人々にさらなる不安と不要な憶測を引き起こし、「外国軍が侵略してきたのでは」という噂まで広まり、人々はいよいよパニックに陥る。炎は触れるものすべてをのみ込みながら西へ西へと拡大していった。そして3日目の9月4日、とうとうシティのランドマーク、セント・ポール大聖堂に到達する。

倒壊するセント・ポール大聖堂

建築家クリストファー・レン。
火災前のセント・ポール大聖堂は、現在の姿と異なり高い尖塔を有していた(ただし、1561年にこの尖塔は落雷で崩れ落ち、火災当時は尖塔のない姿となっていた)。今日見られるドーム型の建物は、大火後の都市再建事業の一環として、オックスフォード大の天文学の教授で王室建築副総監の職も兼ねていた建築家、クリストファー・レンの指揮のもとに建てられたものだ。
セント・ポール大聖堂は604年にこの地に建てられたが、相次ぐ落雷や火災の被害を受け、この時点までに数回の再建・拡張を経ていた。修復に必要な予算が不足していたことなどもあって、かなり老朽化が進んでいたという。1633年にようやく修復工事が開始されたものの、1642年に清教徒革命が勃発すると工事は中断。クロムウェルによる共和制時代には、教会に対する敬意そのものが希薄になり、本来の役割をほぼ失ってしまう。巨大な建物は集会場や市場、難民救済所として使われ、盗人や乞食の稼ぎ場所にもなっていた。また騎兵隊の宿泊所としても使用され、彼らが内部を一部焼くなどしたせいで、支えを失った天井が傾きはじめていた。そこに追い打ちをかけるかの如く猛火が襲い、セント・ポール大聖堂はとうとう炎上、倒壊という悲惨な最期を迎えることになったのだった。
多少落ちぶれた姿になっていたとはいえ、10世紀の長きにわたり人々の信仰を象徴してきた不動のランドマークが崩れ落ちるとは、誰が想像し得たであろうか。大火発生前から大聖堂の修復計画に意欲的に携わっていたレンも、思いもよらぬ惨事を目の当たりに「そんなバカな…」と、愕然とつぶやいたに違いない。
轟音を立てて崩れ落ちた瓦礫は通りを覆い、熱せられた石は手榴弾のように飛び、屋根を葺いていた鉛が溶け出して周りの通りに流れ落ちた。あたりは馬も人も通れない有様だった。大聖堂なら安全と逃げ込んだ市民も、骨の一片すら残らないほどに焼き尽くされてしまったとみられている。

本当に出火元は
プディング・レーンだった?

今年2月、歴史家のドリアン・ガーホールド氏が、実際に出火元となったパン屋はプディング・レーンのどの位置に建っていたのかを検証した。モニュメントを中心にして半径61メートルの円を描き、様々な当時の地図と照らし合わせ、正確な出火場所を探索。その結果、パン屋が建っていたのは、現在のモニュメント・ストリートの路上であることが判明した。1671~77年にかけて塔が建造されるにあたり、周辺の区画整理が行われたという。当初はなかったモニュメント・ストリートがつくられ、プディング・レーンも西へ移設されたことにより、記録との誤差が生じたと発表した。

国王先導の消火活動

コック・レーンの角にある少年像。
「大食」はキリスト教における7つの大罪
(the Seven Deadly Sins)のひとつ。
一説では、Pudding Laneで出火、
Pye Cornerで鎮火され、
プディングもパイも「食」であることから
「大食」と結びつけられたという。
火勢は一向に収まらず、市民や消防士による消火活動は遅々として進まない。シティの地主たちからの反対に押されて気弱になり、民家の取り壊し命令を実行することができないでいたロンドン市長のブラッドワースも、ここにきてようやく行動を起こさざるを得なくなる。彼が即決即断型の人物であったならば、この4日間におけるシティの運命は大きく変わっていたかもしれない。彼の優柔不断さとリーダーシップの欠如が、焼失地域拡大の一因であったことは否めないだろう。
後手にまわった市長に代わり、国王チャールズ2世の先導でシティの消火活動が進められていった。まず1日目の時点で、ピープスらの進言をもとに火の進む方向にある民家を取り壊し、延焼を防ぐ対策が講じられる。3日目には国王自ら視察に赴き、なんと水桶を手にして消火活動に参加。消防士たちは王弟ヨーク公の指揮のもと、消火活動にあたったという。あまりに美談のような気がしないでもないが、王政復古からまだ日が浅く、人々の支持が高かった王家が英雄的かつ献身的活躍を見せたというところだろうか。
3日目の夜、ようやく強い風が収まりはじめる。4日目には防火帯が功を奏し、火の手はまだまだあがっていたものの勢いは弱まり、大火災はようやく終焉へと向かう。完全に鎮火したのは9月6日だった。最後に火が消し止められた場所はコック・レーン。現在のセント・ポール駅とチャンスリー・レーン駅の中間に位置し、火元となったプディング・レーンと同じく、コック・レーンの角には少年の姿をした記念碑が建てられ、次のような言葉が添えられている。

「This Boy is in Memmory Put up for the late FIRE of LONDON Occasion'd by the Sin of Gluttony.」
(この少年の像は、人々の大食によって引き起こされた先のロンドン大火を記念し建てられた)

一面の焼け野原と化したシティ。被害はあまりにも甚大であった。しかし、いつまでも呆然とうずくまっている訳にはいかない。人々は灰と化したわが町に戻り、再建への一歩を踏み出す。そして政府もこの大災害を機に、シティを新たな空間に生まれ変わらせる都市計画づくりに着手する。
そんな中、鎮火から1週間も経たない9月10日、チャールズ2世に誰よりも早く再建プランを提出した男がいた。燃えつきた町を復興するという壮大なプロジェクトの成功は、彼の尽力なくして語れない。その男の名は、クリストファー・レン。焼失したセント・ポール大聖堂を現在の姿に再建した人物として、先述した建築家である。
 次号の「ロンドン大火から350年 パート2」では、天才的な建築の才能を発揮して、ロンドン復興に生涯をささげたクリストファー・レンについてお送りする。

※本特集は、2010年9月2日号に掲載したものを再編集してお届けしています。
Special thanks to:Museum of London

 

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